旅の初日は川治温泉に一泊しました。この日は定休日の温泉宿でしたが、素泊まりなら泊まれるということで夫が予約してくれました。私が早朝や日没前後、また星の写真も撮るので、食事の時間に縛られない素泊まりの方が便利です。かといって車中泊やテント泊は面倒、温泉には入りたいということで、旅の宿泊は素泊まりのお宿が多いのです。
この日の宿、全く期待していなかったのですが、広い館内が私たちの貸切で、一番良いお部屋にアップグレードしてくださり、広い温泉に一人で入り放題でした。
翌朝は5時に出発して、大内宿を経由して仙台方面に向かうことにしました。
会津西街道 五十里(いかり)の絶景
前夜泊まった川治温泉を早朝に出て会津西街道を走っていると、眼下に深い森と湖が見えました。
五十里(いかり)の地名は、江戸から五十里の場所にあることから名付けられたのだそうです。
車を停めて朝ごはんにコンビニで買ったサンドイッチを食べていると、「ヒュルルルル〜〜、ヒュルルルル〜〜」という特徴のある鳥の声。私たちの大好きなアカショウビンの声がするではありませんか。

こんなに山深いところにアカショウビンは住んでいるんだね。
一度実際に会ってみたいなあ。
早朝の五十里湖
会津の行き帰りや湯西川温泉に行く機会があれば、このぜひ立ち寄ってみてください。紅葉の時期はきっと素晴らしいと思います。
私たちは寄り道をしながら、8時すぎには大内宿に到着しました。広い駐車場(500円)があります。
大内宿、混雑時期おすすめの歩き方
コロナが5類になってからは海外の観光客も多く、土日、夏休みなどは混雑が予想されます。もしツアーではなく個人旅行で行かれるのでしたら、朝9時までには着いて静かな大内宿を端から端まで歩き、奥の高台からの光景を楽しむのがおすすめです。
そうこうするうちにお店が開店しますから、本陣の街並み展示館に入ったりお土産物屋を見て回り、早めにお昼を食べると、炎天下で並んだり人混みを歩いたりしなくてお勧めです。
この日も10時を過ぎると観光バスが到着して、海外からの団体さんで大変な賑わいとなりました。
大内宿は全国で3番目の重要伝統的建造物群保存地区
大内宿は木曽の妻籠宿、塩尻の奈良井宿に次いで、日本の重要伝統的建造物群保存地区です。
福島県南会津郡下郷町大内。江戸時代に宿場町として盛え、今もなお当時の街並みを残し続けている大内宿。戊辰戦争の戦場にもなった大内宿には約400年の歴史が詰まっています。
朝9時の大内宿は人通りもなく静かでした。
大内宿の整然とした街並みは、江戸時代の宿駅制度に基づいています。道の両側に屋敷が均等に並んで、寄棟造の建物が街道に面しているのだとか。

この見事な茅葺き屋根を維持するのは並大抵の努力じゃないよね〜!
大内宿 苦難の歴史
今は世界中から観光客が訪れる観光地となった大内宿ですが、戊辰戦争の前後は大変な苦難の歴史があったようです。
幕末の大内宿は享保の凶作で生活が脅かされました。安政2年(1855)には家財のたたみ、むしろ、鍋釜などを売ってやっと年貢を納めるという状況で、群第一の極貧村というレッテルを貼られるようになりました。
こうした長年の貧窮に加えて戊辰戦争の戦場になり、村は焼かれることはまぬがれましたが、東西両軍から各種の負担を要求されました。
大内宿に古文書が少ない理由の一つに、足を傷めずに履き心地の良い紙撚りの草履を要求され、古文書がこの時の材料になってしまったという事情があったようです。
大内宿のねぎ蕎麦(高遠蕎麦)
みっちーは、TVで見たことのある「ねぎ蕎麦」を一度食べてみたいと思っていたそうです。ねぎ蕎麦屋さんはたくさんありましたが、私たちは石原屋さんというお店に入りました。
ねぎ蕎麦はお箸を使わず、ねぎ一本で食べるのがお約束です。ねぎを薬味として少しずつかじりながら食べるという、なかなかワイルドなおそばです。ねぎは先が少し曲がっているので意外に食べやすいのですが、お箸も置いてありました。
ねぎ蕎麦は会津地方に昔から伝わる食べ方で、婚礼の時に振る舞われる縁起物のお蕎麦です。
白ネギが大好きなみっちーはあっという間にねぎを食べてしまい、なんと追加注文をしていました。そんな人は珍しいみたいです。

すみません〜、ねぎ2本追加してください!
「漬け蕎麦がき」も、もっちりしていて美味です。つゆがまろやかで美味しいと感じました。
大内宿のお土産

色とりどりのちりめん細工の野菜やお花、赤べこの人形などがカラフルでとても可愛らしい!お土産に喜ばれそうです。

叶屋さんの大根も縮緬細工です。

東北といえばしそ巻きや栃餅がいいな♪
参勤交代の食事
こちらは本陣で、大内宿の街並み展示館となっています。当時の街並みや暮らしぶりが再現されています。
大内宿には、会津藩の殿様の御通りは40年間に18回。多い年には年に3回もあったそうです。その度にここで昼食をとる憩いの場になっていたのでした。
宿は1戸平均10名以上の接待で賑わったのですが、当時料理人の数は50名、各家ごとに腕の立つ料理人がいました。
こちらは文政年間、八代藩主・容敬当時のお供の者の昼食の献立です。
- 飯
- 汁(わらび、みかんどうふ)
- 平(玉子・すず子・なら芋)
- 皿(たくあん漬)
藩主はこれに加えて
- 砂針(ウコギ)
- 重物(しいたけ・きくらげ・すず子・わらび・さといも)
- 八寸砂針(いわなの焼き浸し・しょうが)
- 吸い物(浜やき・せんどうふ)

やはり殿様のお食事は美味しそう。すず子は多分まがりだけの筍のことかな。浜やきやせんどうふって何だったのかすごく気になるな。山のもの中心の美味しそうな献立ですね!
村人の食事
一方、当時の一般の人々の食生活はどんなものだったのか気になります。貞享2年(1685年)の記録がありました。
三食とも編み菜が主体です。編み菜とは大根の葉を干したものです。
- 朝 編み菜と雑穀
- 昼 編み菜に少し米が混ざっている
- 夕 編み菜に糠を混ぜたもの。
農閑期の9月から3月までは昼食抜きの1日二食。最高のご馳走は打豆、豆腐、天ぷら、ニシンだったそうです。
邪気や魔物をはらう「厄祓い」
どの家の軒先にも飾られていたこの葉っぱ、旧暦の端午の節句に飾った菖蒲とヨモギの葉っぱだそうです。家に邪気や魔物が入らないようにするための厄払いです。菖蒲湯と同じような意味合いなのでしょうか。
高台にある庚申の碑
燕の幼鳥

可愛い燕のひながすぐそばの軒にとまっていました。親鳥が餌を運んでくれるのを待ち続けていました。
この後、私たちは大内宿を出て、裏磐梯を回って仙台に向かうことにしました。
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